昔の思想:再録
2002年6月30日青魚時代の日記再録です。
(私は昔、青魚という名前を使い、ここのサイトで日記を書かせて頂いておりました。)
透明な文学の祖は夜に在り。
また、文学のみ為らず透明で浅い全てのもの
深夜に在り。
深夜なるものの最大の意義は睡眠、活動、猟に有らず。
其れ即ち自失に在り。
自失した自己に流れ込む環境と時間が心と肉体を
引き寄せる。統結された一人の人間はあらゆる全てのことが可能に成る。不可能の対の可能ではない。
可能の対もまた可能である。
可能の中を流れるまたは可能の中で浮いている自己を動かすのはもはや昼間の理性ではなく其の下で燻っていた本能なのだ。本能が表に出る時間。
故に全てが理性の抑圧を外れた透明な自己なのである。
しかし透明は透明でも人は人で或る限り其れに曇りを被せる。つまり半透明である。
理性の抑圧から外れるにしても其処には人間界での
限界が在り、完全に古皮質だけで動くことは無理である。
とは雖も深夜にも成れば其の透明度は限りなく透明に近く成る。
中には其処が『無』と呼ばれる場所だと思う方もおられるだろう。しかし私は其れを否定する。
其処は飽和を超えそうな程の『有』の世界である。
全ての全てが周り、辺り、自己の中に溢れ返りどれを汲み取ろうと自由な世界なのだ。しかし汲み取ることは出来ない。ただ此方の意思とは関係無く(たまに関係のある物が)あらゆる種類のあらゆる物事が自己を通過するだけなのである。此れを『感じる』ことこそが文学を透明に、音楽を透明に、あらゆるものを透明に創る。
そう思っている。
(私は昔、青魚という名前を使い、ここのサイトで日記を書かせて頂いておりました。)
透明な文学の祖は夜に在り。
また、文学のみ為らず透明で浅い全てのもの
深夜に在り。
深夜なるものの最大の意義は睡眠、活動、猟に有らず。
其れ即ち自失に在り。
自失した自己に流れ込む環境と時間が心と肉体を
引き寄せる。統結された一人の人間はあらゆる全てのことが可能に成る。不可能の対の可能ではない。
可能の対もまた可能である。
可能の中を流れるまたは可能の中で浮いている自己を動かすのはもはや昼間の理性ではなく其の下で燻っていた本能なのだ。本能が表に出る時間。
故に全てが理性の抑圧を外れた透明な自己なのである。
しかし透明は透明でも人は人で或る限り其れに曇りを被せる。つまり半透明である。
理性の抑圧から外れるにしても其処には人間界での
限界が在り、完全に古皮質だけで動くことは無理である。
とは雖も深夜にも成れば其の透明度は限りなく透明に近く成る。
中には其処が『無』と呼ばれる場所だと思う方もおられるだろう。しかし私は其れを否定する。
其処は飽和を超えそうな程の『有』の世界である。
全ての全てが周り、辺り、自己の中に溢れ返りどれを汲み取ろうと自由な世界なのだ。しかし汲み取ることは出来ない。ただ此方の意思とは関係無く(たまに関係のある物が)あらゆる種類のあらゆる物事が自己を通過するだけなのである。此れを『感じる』ことこそが文学を透明に、音楽を透明に、あらゆるものを透明に創る。
そう思っている。
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